劣等遊民

千の旬に会うために。

まぬがれたい

 僕は自分の原動力を「めんどくさい」だと思っていたが、ここ最近は少し考えが変わってきた。いやなことから逃げたい。面倒なことは背負いたくない。気が乗らなければお茶を濁したい。ありとあらゆる責任や束縛から「まぬがれたい」。

 頭を使えば、「めんどくさい」は行動に結びつかぬとわかる。たしかに僕は大半の時間を無為に過ごしてフイにしている。説明がつかないのは、そんな僕でもやたら発奮し何かしらを為す場合のことだ。そういえば、高熱が出たときに限ってなぜか勉強がはかどっている。あの現象はなんだろうか。

 

 発奮したとき、僕は没頭できる気がする。気がするだけなんやろうけど、周りの目や後先を気にせず作業に打ち込めている感じだ。アウトプットの質はともかく仕上げは早い。オドオドもクヨクヨもしないので、やるべきことをやっているという自覚がもてる。

 典型例が試験時間だ。与えられた時間内に一定量の問題を解く。回答するのに必要な時間を見極め、とりかかる順番を決める。それさえ済めば微修正を繰り返しつつ、目の前の問題たちに集中できる。大好物は小論文で、時間ぎりぎり、原稿用紙のマス目ぴったりに文字を収めるのが快感だ。さすがに入学/入社試験では時間に余裕をもたせていたが、かえって思考が凝縮され、文章も読みやすく書けたと自負している。仕切られて与えられた領域の中で最適解を追求する。そのミッションが僕を刺激する。

 見方を変えれば、あらゆることにその公式を当てはめてみれば多くは解決するかもしれない。つまり、その状況が誰から付与され枠組みはどうなっているのか、それを理解し腹落ちさせれば多くのことに没頭できる。

 しかし、そうもいかないようだ。自分のことに「ようだ」と言うのもどうかと思うが、「仕切られて与えられた領域の中で最適解を追求する」では足りていない。そこに僕の生き方のエッセンスがある。

 

 いま言うならば、「これさえ終われば楽になれる」という感覚。それが僕を支配している。試験もそうだ。たとえ勉強不足だろうが、ちょっと体調が悪かろうが、終わってしまえば枠から外れて自由になれる。そもそも試験を意識したせいでしんどくなった気がするだけで、肉体的には何の問題もないということもあるだろう。

 仕事においても、日中ダラダラ流しているのに定時を過ぎると妙に身が入ることがある。とくに休みの前の日がそうだ。それはつまり、あと少しのところまで「解放される」イメージが来ていて、開放感を深く味わいつくすために直前だけはがんばろうとする浅はかさである。「がんばろう」という言葉自体が何ら具体性を伴わず、そのくせ達成感めいたものを与えてくるからたちが悪い。結局のところやるフリだけで、現実を動かせてはいない。視線は過去と未来を行き来し、たいてい人の顔色を見る。しょうもない。

 

 自分を罵ったところで何かが解決するわけでも、ましてや創造されるわけもない。せめてこのブログぐらいは逃げずに書こうとゆるく誓いつつ、ペンを置く。