劣等遊民

千の旬に会うために。

平成30年度のはじめに

 平成30年度が始まる。期するものはない。何をするかより何をしないか決めることこそ、大事だと思う。


 僕の憂鬱の大半は、やるべき作業をやっていないことに起因する。僕は作業が苦手だ。本で読んだ知識と比べて、作業手順は身につかない。個人の資質というよりも、個体としての限界なのではないかと感じる。言い訳がましくなってしまうが、自分の身を守るためには仕方ない。そんな言い草。

 やるべきことをやらないので、他者からは「消極的」「信用できない」と評価される。自分で蒔いた種であり、それを正す意欲もない。エネルギーが枯渇するから、そのうち人は離れてゆく。


 ネガティブな文になるのは、始める前から予見していた。予め道筋を決めていないと、こうなりやすい。ブログで何を書かないか、それを決めるのは難しい。新年度までに書かないことのリストを作ろうとしていたが、先回りして拾い上げることができなかった。

 時間は有限。1日はあっという間に終わってしまうし、1年間の体感時間も歳を追うごとに短くなる。それに加えて、ある段階でついた習慣を見直すことなく、ズルズル続けてしまっている。自ら浪費と断じることは忍びないが、大多数の人から見れば時間の無駄遣いと言われて然り。そういった〈趣味〉がいくつもあり、持ち時間を圧迫している。

 なぜそんなことを続けているのか。自分なりの意味があることをやりたかったのだ。言い換えれば、人と同じことをしていて満たされることが少ないからだ。物事を遂行させる力が無いから、人生一般の出来事を避けようとして生きている。その状況下で自分を満たす(埋める)ためには極端なことをするしかない。幼少期からそういうふうに生きてきたから、世間一般での認識と僕の価値観は大きく乖離し、たまに気まぐれで触れてしまえばヘタを打ち、ますます足が遠のいてしまう。やがて心も寄りつかなくなる。

 

 特殊な生活スタイルに固執するのは、世間に対するアンチテーゼか、それとも単なる怠慢か。その答えが出る1年となる。