劣等遊民

千の旬に会うために。

朝の記

 新しい朝が来た。希望の朝かはわからない。

 大学生のころ書き始めたノートを昨日少し読み返した。僕の文章は歪な世界認識と捻くれた自己顕示欲で満ち満ちていて、そのほとんどは書いた本人も読む気が失せる代物である。初期の「3行日記」は毎日続いていたが、しばらくすると頻度を落とす代わりに1回で書く分量が増えた。毎日書けば、自分を取り巻く状況が変化していると分かりやすかったかもしれない。しかし僕はそうしなかった。自分の思考を突き詰めるのに3行では足りなかったのだ。かくして週に数回、30行ほどの散文をしたためるようになった。手書きなので字の大きさは安定しないが、だいたい1行20字だから600字ほど書いている計算になる。ただ小論文のようにまとまった考察ができているわけではなく、朝日新聞の「天声人語」のように着想が飛び火しているものが多い。そうすることで、徐々に自分の考えることを深化させてきた。

 「考えること」と言ったのには、2通りの意味がある。1つは個々の事象に対する自分なりの意見を掘り下げることで、もう1つは思考するプロセスの総体という意味だ。大学ノートをやみくもに黒ボールペンで塗りつぶすことが、僕の思考の原点にある。

 30行を書ききる前に発想が飛躍した場合、あえてホッタラカシにしたまま隣の段に書き始める。僕はノートの頁を縦半分に割って使う。つまり1つの見開きに4つの段ができるのだが、ひどい時はどの見開きも未完成のまま進行していた。ボコボコと泡が出るように文字の羅列が生まれ、途切れる。幼少期から1つのノートを使い切るのが苦手だったが、今に至るまで本質は変わっていない。飽き性というか堪え性がないというか、持続性には欠けていると自覚している。思考の仕方もそのようなものだ。次々と脳裏を過ぎる着想の尻尾に飛びつき、結果としてどれもこれも中途半端に終わってしまう。これは実生活でも同じで、僕の弱みともいえる。

 しかしこのやり方を変えられずにいる。一見すると関連しないようなものでも、根っこのところで繋がっている気がするからだ。迂遠の道を行くようでいて、より本質的なアイデアを摑もうとしている、そういった感覚なのだ。ノートに文字を書く作業は、いわばその輪郭や手触りを知るための調査である。

 具体例はまた出してみたいが、今すぐ適切なものが思い浮かばない。僕の書く文章は、多くの人にとって読みやすいものではないらしい。起承転結はほとんどないに等しいし、「言いたいのはこういうことです」と主題をはっきり提示できている自信もない。「分かりやすい文章表現」から遠すぎる。僕が書く目的自体が人に読ませることよりも、脳内のアイデアを投げ出すことにシフトしている。

 この文章にしてみても捉えどころがなさすぎる。最初の一文に至っては何のためにあるか分からない。それでも書かずにいられなかった。こじつけるならば、「朝を制する者は1日(人生)を制する」とでも書きたかったのではなかろうか。やっぱり僕は、自分がいちばんあてにならない。