劣等遊民

千の旬に会うために。

母の半生

 今日は母の誕生日。

 ふだん母の人生に対して思いを馳せることがないため、いま感じることを記しておく。


 母は5人きょうだいの長女で、祖父母にとって最初の子どもとして生まれた。母が語るところによれば祖父母も曾祖父母も厳格で、めったに遊ぶことはなかった。とくに幼い弟妹を育ててきた経験が、彼女の芯を強固にした。エピソードとして僕が聞いたのは、弟をいじめた男子を一喝したこと、赤ん坊の妹を背負い皆の衣服を繕ったこと、などである。この経験が、彼女に早くから「自立」志向をもたせた。

 母にはロールモデルがなかった。家事に対しては(僕の)祖母から丹念に仕込まれたと聞いているが、こと人格形成において頼るものはなく、「自分でなんとかしなければ」との責任感ゆえ判断力や行動力を身につけたのだと推察される。


 現在の母は人付き合いをあまり好まないように見える。一方で面倒見が良く世話好きという一面もある。それはたとえば職場で人間関係に躓いた同僚へのフォロー、旅行時の宿の手配や行動計画の緻密さなどにも表れている。母にとって人と繋がる方法は、「世話を焼く」の一言に尽きる。

 

 そんな母が父と出会った。その顛末は面白いのだがうまく書けない。母が父に何を見出し、家庭を築くに至ったのかは想像の範囲でしかない。彼女は多くを語らないからだ。しかし姉が、実家の2階の押入れから幾重にもなる手紙の束を発見した。母から父に宛てたものだ。そのころ2人は事情があってしばらく離れて暮らしていた。手紙に記された概要は「早く会いたい」の1点である。そこに母なりに情感込めて言葉を紡ぎ、思いの丈を綴っていたのだ。それを受け止めた父がこっそり、1枚残らず貯めこんでいた。

 書く母がいれば、残す父がいる。この時期が夫婦として歩むうえでの基盤となったのだろうと思う。


 彼らが婚姻届を出したその日は、南河内郡狭山町が「大阪狭山市」へと名を変えた日でもあった。


 それから1年と少し経ち、兄が生まれた。くりんとした目で幼少期から人懐っこく、誰からも愛される存在。フォトアルバムが十数冊ある。父が今より健康であり、登山やレジャーによく出かけていた時期でもあった。母は習い事をさせたがり、兄はサッカーにのめり込んだ。中学のころに膝を痛め、高校以降プレー機会はほとんどないが、少年サッカーの指導者として多くを学び、後にカリスマ塾講師としてローカルなスターとなった。彼のまわりにはいつも人がいる。天性の吸引力は父に通ずるものがある。

 一方で、極端な美意識や正義感は母から受け継いだものだ。意外と人の好き嫌いなどもはっきりしている。人をもてなすときはとことんやるタイプなので年少者にも慕われている。

 兄の本棚は僕と違ってすっきりしている。そこにあるのは漫画の単行本数種類と自己啓発書、日課にしている英単語帳。小説ならばミステリーが好きなところも母譲りである。


 兄より2年弱の後、この世に生を享けたのが姉だ。待望の女の子だったのかは定かでないが、父と姉の仲は良好で、ほどよい距離感を保っている。一方母と姉はといえば、気質がだんだん似通ってきた。本人同士は否定したがるが、揺るがしがたい事実である。気が利く反面、手厳しいとも表現できる。姉はたぶん、父のような人と結婚したほうがよい。だいたいのことは器用にこなせるタイプなだけに、趣味やこだわりが違いすぎても一致しすぎても大変だろう。しかし友人や仲間としては、これ以上なく信頼のおける一人である。不言実行、黙々と目標に向かって邁進する。自分から広く発信こそしないが、さりげな気遣いで周囲をサポートする。控えめだがどっしりとした存在感。

 姉は有川浩の作品をよく読んでいた。気に入った本はハードカバーでも躊躇なく買う。最近はよく読みたい本が一致するので、定期的に貸し借りしながら感想を言い合っている。


 僕が生まれたのは姉よりも、さらに3年近く遅れてのことだった。

 僕が生まれてからの話は改めて書く。