劣等遊民

千の旬に会うために。

泥磨き

僕の原点は何だろうか。使命があるのだとすれば、それはどんなことか。


その手がかりは、やはり言葉にまつわることだ。


言葉に出すということは、世界を分節することである。

なんとなく認識しているつもりであっても、自分の言葉で表せなければ理解が及んでいるとはいえない。

言葉を獲得することで、世界をよりクリアに切り取ることができ、ただ複雑な事象に意味付けすることができる。

言葉を紡ぐことは編集だ。情報をどの順番で出すか、聞き手や読み手をいかに動かすか、頭を使って考えることで届く形を模索する。その繊細さを要求される。


しかし僕が使う言葉は正確ではなく、いつも言い足りないか言い過ぎている。情緒垂れ流しの時もあれば、冷めきったスープにもなってしまう。これは言葉に寄りかかりながら、その効力を活かせていないことに起因する。言葉に依存しているくせに語彙や言い回しをなぞるだけで、本質的なところにまったく迫れていない。それは覚悟の無さともいえる。


僕が言葉にすることで、個人や社会に打撃を与える覚悟はあるか。それだけの影響力をもてるのか。そんな大げさな空想だけは腹にいだいている。着地させる策がなければ、空想は空想のままなのだ。僕は具体の作業をするのが苦手だから、意識の有る無しにかかわらず避けてしまう。


模索を怠った結果、適切でない言葉が生まれる。

言葉を何に向けて使うか。そこがブレると、どんな表現も上滑りする。僕は考え無しに言葉を使ってしまい、よく失敗する。不用意に人を傷つけてしまうこともある。


それでも僕が懲りもせず言葉にこだわるのは、それを通じて達成したいことがあるからだ。そのイメージやビジョンが最近、おぼろげながら漂っている。それを引き寄せ掴み取るために、暫定的だが言葉にしよう。

 

 

僕は、泥をすくい上げる者でありたい。

自分に持ち場があるとするなら、誰もが視線を向けなかったり、気が付いていても敢えて踏み込まずにいたりする領域のことを取り上げたい。僕が率先して飛び込むのだ。


泥とは何か。毒にも宝にもなる原液だ。

心の闇、眠れる才能、それらはきっと表裏一体で見分けがつかない。無自覚なまま一生を終えられる人は幸せといえるのかもしれない。しかしひとたび泥に気が付くと、二度と離れることはできない。忘れたふりをしていても、ふとした瞬間に思い出す。それは鈍い痛みを


僕はずいぶん囚われている。自分のルーツ、社会での位置、果たすべき使命。

小さすぎる鍋で煮詰めても吹きこぼれてしまうような問いがいくつもある。

性急に求めても、腑に落ちるような答えが得られるとは限らない。むしろ自分の理解力も表現力も足りていないから、瑣末なことに囚われすぎて必要なものを見落としてしまうかもしれない。


経験する出来事を咀嚼し、人間として成熟すること。その蓄積に応じて答えが見えてくる

さらには問いも洗練されていくだろう。質の良い問いが人生を動かす。

 

 

奥底に溜まる泥を見逃すな。問うて言葉を磨き続けよ。