劣等遊民

千の旬に会うために。

膿をひり出せ

 7月上旬の豪雨の際、歩いていると靴の中に大量の雨水が入った。それから足指裏の水ぶくれがひどく、痒み痛みで夜も満足に眠れなかった。

 処置方法を案じていたが、自分で破ることにした。針で膨らみの中心を刺す。すると透明の液が滲みだす。すかさず綺麗な布で拭き取る。しばらくするとまた液が出るので、それを拭き取る。この繰り返し。さすがに痛むが、これで症状がましになるならば、採用する価値のある方法だ。

 膿を出すことは大事である。
 不摂生や他者への不義理、システムの腐敗。生きていくうえで個人としても集団としても好ましくない状態になることはある。バイオリズムとはそういうものだ。何をやってもうまくいく時もあれば、やることなすことすべて裏目に出ることもある。この循環を避けて通ることはできない。
 しかし不可抗力でなければ、きっかけは人が作っているのだと考える。日常の何気ない挙動、些細な選択の積み重ねが因果を結びつける種となる。その時々ではわからないが、後になってから「あの時の選択が」とか「ああしておけばよかった」などの思いが胸に去来する。生きていくかぎり膿が溜まるのもしかたない。問題なのは放置することだ。腐って瘴気を放たぬよう、自己管理のもと早めの対処を心がけたい。
「君子危うきに近寄らず」という。僕には高い徳などないが、市井に生きる者こそ用心せねばならない。物事の匂いを嗅ぎ分け、自分を損なう可能性のある危ういものから距離を置くこと。もし判断を誤ってダメージを受けた場合は、最善の処置を施すために全身を使い思考すること。臆病者と評されようがブレることなく、僕の核心を守ること。

 指の股に形成された新たな傷をサランラップで包み込もうとしてみたが、うまくいかない。当座は安物の絆創膏でしのぎつつ、ドラッグストアで上等の品を探そう。

野蛮な紳士、支離滅裂に斬捨御免。

 酒を浴びるように飲んだとき、不覚に陥ることがある。今になってだいぶ減ったが、学生時代はひどいものだった。ある時、朝一で飲んだ勢いで授業を受けた。その日の喋りは自分でも驚くほどに滑らかで、教授からも「君に限っては、毎回酒を飲んで来たほうがいいんじゃない?」と言われてしまった。悪くないアイデアだった。
 僕の脳みそはカチカチに固まっていて、良いアイデアがなかなか出せない。僕の出力が低ければ、そのぶん外部からの入力を刺激的なものにしたい。
「飲んだら寝る」では話にならない。酩酊状態に抗ったりあるいは利用したりして、アイデアの塊を削る。表現を研ぐ。ネガティブからポジティブまでを一気呵成に走り抜けたい。
 どこかの誰かは薬物摂取でトランス状態に入り、創作の着想を得ていた。このやり方は多少なりとも日常生活を犠牲にし、禁断症状にも悩まされる諸刃の剣だ。

「酒は百薬の長」といわれるが、捉え方の問題である。一定の量を突破して深酒すると短期的にも長期的にも後悔を生む結果が出やすい。
 それでも余計に飲んでしまうのは、しばしの酩酊状態によってストレスから離れられると期待するから。しかし嫌なことを忘れんがために酒を飲むと、かえって記憶が固着してしまいストレスに支配されやすいという。飲むのは楽しい酒に限る。人がするなら多少付き合うが、自分はヤケ酒しないでおこう。
 今日も懲りずにビールを飲もうと考えている。週末の夜だけに許されたハッピータイム。ハッピーと感じられるのは健康だから。そしてたまにしか飲まなくなると、ビールの泡やキレ、のどごしの微細な違いが前よりもよくわかる気がする。「気がする」ことが大切だ。幸福なんて主観的だし、僕にとっての幸福のうちに「ビールを味わって飲むこと」が入っているから。

 僕は野蛮な紳士になりたい。眼をギラつかせて微笑む感じだ。頭も体もキレているのに、どこか落ち着いた佇まい。僕はそういうものになりたい。
 そこへ行くには、圧倒的に何も足りない。どこから手をつけてみようか。悩ましくもあり、愉快でもある。まずは思考の試行を増やそう。話はそれから。

自◯行為

 前回の更新から3ヶ月経った。日数に換算すると91日。この間僕は何していたのか。

 怒涛のような期間であって、何もしていない日々だった。
 相当なことが起こったはずだが、文脈をつかみ損ね、適切な語彙を選び取ることもできないままに日々は流れた。当事者意識も俯瞰の視点も持てなかったので、断片的な記憶が散るにまかせている。
 そんな期間を〈跳び越えて〉僕はいまここに存在している。たまたまだ。偶発的で、何の必然性もない。生きているということ自体が、不思議で尊い事実ではある。

 
 僕の書くことは自◯行為である。表現欲求だけ猛々しく、方法論はあまりに貧弱。自己満足に浸る輩は世界から置いていかれ、ようやく気付いて叫んでみても後の祭り。こうしてさらに殻にこもって、表現世界はますます妖しく痩せ細っていく。
 痩せた土地を耕しなおす。結構な労力やろうて。でも腹回りだけは痩せたいよ。

親愛、リバプールFC

 リバプールFCがたいへんに魅力的すぎる。

 僕がサッカーを見始めた頃は「キャプテン」ジェラードが君臨し、トーレススアレスといったストライカーが印象的なゴールを決めてファンを熱狂させていた。彼らが去ってしばらくすると、クロップがドルトムントからやってきた。新たな熱狂が始まった。
 加入当初こそ前任者(ロジャース)とのスタイルの差に選手が戸惑い、ちぐはぐなプレーもあったがタイトル獲得に迫った。2年目以降は代名詞であるゲーゲン・プレスが浸透したほか戦力の整理も進み、クロップが目指すスタイルが徐々に具現化されてきた。コウチーニョが13ゴールを記録するなど、エースとして台頭した。

 今季は高速3トップのカウンターが炸裂し、強豪に一泡吹かせる痛快なフットボールを披露している。冬にコウチーニョが移籍したがチーム力は落ちるどころか、結束力がさらに高まったように見える。
 色褪せることがないのは、今季プレミアで首位独走のマンチェスター・シティを撃破したチャンピオンズリーグの一戦。ベスト8で同国対決となったが、1stレグで前半のうちに3点のリードを奪い、そのまま見事に逃げ切った。アウェイでの2ndレグでも勝利を収め、今季を象徴する見事な戦いぶりだった。
 試合内容だけでなく、個々のキャラクターも面白い。指揮官クロップはモチベーターにして激情家。熱くなりすぎて退場処分になることも。それが却ってスタジアムを団結させ逆転勝利というのもあるから、かなりの戦略家でもありそう。情熱は愛ゆえであり、彼と仕事をした選手たちはそれぞれに成長を遂げる。率直かつユーモアのある話しぶりから、記者とも良い関係を築ける。
 ヘンダーソンはジェラードの後継者として厳しい重圧にさらされたが、クロップの下で自分らしいスタイルを確立できたように思える。中盤の底でバランスをとり、チャンスと見るや精度の高いサイドチェンジで一気に流れを呼び込む存在。堂々とプレーできるのは、指揮官からの信頼をひしと感じているからだろう。
 前線のアタッカーも活きが良い。攻撃を引っ張るサラーはローマ時代から一皮剥け、様々なパターンから得点できるスコアラーへと成長した。マネもシーズン当初は窮屈そうに見えたものの、細かいタッチとストライドとを使い分けながら相手ディフェンスを混乱に陥れている。

 なかでも僕の一押しはロベルト・フィルミーノだ。「ボビー」の愛称で親しまれている彼は、ホッフェンハイム時代からトリッキーさと得点力を見せつけていたが、レッズ移籍後クロップの下で「偽9番」としてのプレーをマスターし、チームのキープレーヤーとして躍動している。
 こと走力に関しては、サラーやマネほど際立っているわけではない。判断の速さとビジョン、相手を欺く遊び心で先手を取ってアタッカーにスペースを与える。アーセナルから移籍してきたチェンバレンの覚醒も、ボビー抜きでは語りえない。数年前のミランイブラヒモビッチの恩恵を受け、ノチェリーノがゴールを量産していたことが思い出される。
 また前線からのプレッシングを肝とするクロップのサッカーにおいて、彼の献身的な走りは不可欠なものだ。攻守の切り替えの早さは特筆もので彼が反撃の旗手となり、周囲が連動して奪いに行く。チーム全体を一つの生き物とすれば、フィルミーノこそが頭脳である。
 現在プレミアリーグではトッテナムのハリー・ケインが最高峰のストライカーとみなされているが、フィルミーノもFWとしての総合力では劣っていない。チームメイトの力を引き出し、得点力を引き上げてくれる。何よりもサッカーを心ゆくまで楽しむ姿勢が伝わってきて、ファンは彼の虜となる。

 チャンピオンズリーグはローマとのセミファイナル。未知数の相手ではあるがサラーの古巣への〈恩返し〉に期待したい。プレミアでも2位を狙える位置につけている。ライバルであるマンチェスター・ユナイテッドを上回り、来季以降への弾みをつけたい。シーズンが佳境を迎え、クロップ率いるレッズの戦士はどんな景色を見ることになるのだろうか。

伊勢の光

 どこに行きたいかと訊かれたら、なんとなく「伊勢」と答えるだろう。
 伊勢には晴れがましさがある。
 近鉄難波駅から特急券を買い、車窓の外をぼんやりと見つめ心落ち着かす。奥大和から伊賀の辺りは山と森である。伊勢中川から南へ下ると田畑が広がり、次いで住宅地が見えてくる。少しずつ人の気配が募ったところで松阪の町が姿を現し、宇治山田の駅で降りると間もなく神宮が見えてくる。都会から秘境に入り、徐々に人里へ戻る過程は生まれ変わりの体験をしているようだ。
 とはいえ、これまで伊勢にいった3度のうち1度は特急列車に乗ったが、あとは自動車と自転車である。小学生の頃に家族と、高校の卒業旅行で部活の仲間と、大学時代に単独で来た。いずれも行程は異なる。答志島の民宿、志摩スペイン村、一人焼肉とどれも懐かしい。
 宇治橋のそばは駐車場になっていて、観光バスやタクシーが多く停まっている。とりあえず記念撮影のためセルカ棒を高く掲げる若者がいる。大型バイクに乗った男性がスペースを見つけられずに右往左往したかと思えば、顔なじみのライダーを見つけヘルメット越しに微笑んでいる。輝くのは神宮ではなく、その〈気〉を浴びた民のほうだとたしかに思う。
 内宮を歩く目的は参詣であり森林浴だ。澄んで微かに湿った空気、砂利の鳴る音、緑の木立から覗く拝殿。このような場所にとどまると信仰心は自然への驚嘆とともに立ち上がってくる。五十鈴川の流れを眺めて過ごす時間も悪くない。

 観光客向けの食事処で、伊勢うどん松阪牛の牛丼を食べる。どちらも口に甘みを残す。前者は醤油で、後者は牛脂だ。くどくなったら紅しょうがで変化をつけて交互に食べる。顎を動かし考えるのは、早くも食べ歩きのことである。
 おはらい町に繰り出して一味唐辛子の煎餅や干物の数々を堪能し、すれ違う人の会話をなんとはなしに聞いてみる。家族連れよりはカップルや友達同士で歩くのが多い。その先におかげ横丁がある。昔遊びに興じても良いし、3時のおやつに赤福を嗜むのも良い。餡の上品な味わいとお茶の渋みの相性が良く、予定していた個数をオーバーして食べてしまう。伊勢の食べものはみなどこか甘い。厳粛な神宮からの開放感がそうさせるのか。答えを出す必要もなく、むしゃむしゃしている。

 伊勢の街中を歩くかわりに、鳥羽へ行く人もいるだろう。水族館には小学生と高校生とで2度行った。関東ギャルが気持ち悪がるウツボを母が可愛いと言い、イルカかアシカのショーを見逃し男子高校生が揃ってクラゲを観察していた場所だ。
 真珠の価値はよくわからないし、それよりは海の幸を食べたい。ホテル近くの美味いと評判の店で、海鮮丼と一品料理を貪った。ホテルマンはダンディかつ親切な人で、標準語だが話のユーモアもあった。お気楽な大阪からのティーンエイジャーに隠れスポットや旅の醍醐味を教えてくれた。思いがけない良き出会いが、旅を輝かせてくれるものだ。
 家族で泊まった民宿で、海藻を食べるようになった。夕食以上に朝食が豪華なことに心躍った。早朝に起きて野山を歩きまわっていると、「川口浩探検隊」になった気分でウキウキした。小ぶりな漁船がひしめく港で潮風を吸い込んでいると、都会で蓄積してきた疲れは全部吹き飛んでしまうように感じられた。船酔いもしたがリフレッシュすることができた。
 自転車に乗り自分の脚で伊勢と鳥羽の地を巡っていると、海と山が接近していることに気づく。紀伊半島の南の沿岸ほどではないが、街のエリアは案外狭く、川を通じて山から海へと水が広がることがよくわかる。その一滴を構成する微粒子にでもなったかのように、僕は道路を走り抜けた。二見浦で燃えるような夕陽を見ながら、伊勢路を駆ける。それはたいそう心地よかった。

 神の膝下で生きる民は、そうでない人々よりも安らいでいるのだろうか。日々の生活に悩みながらも大きな存在にいだかれて、霊的には満たされながら過ごすのだろうか。
 僕は信心深くはないが、神宮の森は深く川は清らかだ。賑わう町を歩いていると、人の活気に影響されて自分も元気になってくる。観光は「光を観る」と書くが、この地に充満している光は我が眼を撃つ。

灰色の空と漆黒の雨

 大気が湿り、のっぺりと灰色をした空が僕を見る。自意識過剰な面をした僕は靴をアスファルトに擦らせる。あらゆることが閉塞している。生きていることを証明するのは造作もないが、張り合いもない。

 今ここで呼吸を続け、地を這う自分。土を憎み土を愛す僕。言葉にするたび大切なものをどこかに落とし臍を嚙んでいる。その繰り返しで表情は曇り、誰も寄りつかぬ人相ができる。不平にもならぬ戯言、聞くに堪えない妄言ばかりを垂れ流すならば、この世で生きる意味も見失う。

 意識ばかりが拡散を続け、どこか遠くへ行こうと誘う。それさえも実は妄言であり、酒が入ったらさらにひどくなる。ほこりをいただく魂だけが伊勢や淡路へ行こうなどとと騒ぎ立てるが、実体は何も起こらない。

 テレビはいつも喧しく、自立的な思考を奪う。バラエティ番組は無秩序か妙にもっともらしくあるかで、コマーシャルからは中毒性しか抽出できない。

 今日のこの空は僕の心象風景か。何事もうまくはいかず悶々と終える毎日。決定的な破綻もなければ、心が晴れる出来事もない。何か成すには動かねばならぬ。それでも受け身の姿勢を守る。

 

 空に変化が訪れた。重みと味気無さに耐えられず、溜まったものを吐き出すような雨だった。僕の髪も僅かに濡らして、雨は街を黒く染めてゆく。窓を閉めても途切れることなく、白い糸を繰り出すように雨は降り続く。闇の世界を光が貫き、変化をもたらそうとしている。軽い運動を終えた僕は、どうにかこらえて家へ帰る。

 雨とはやさしさであった。土を潤し草木を育み、獣も鳥も人をも救う。時に過剰な力が働き大洪水に見舞われることがあるとしても、地から湧き出し天より降り注ぐ雨こそが命を繋ぐ。肌で理解する必要がある。

 

 乾ききった土である僕こそ、沢山の水を求めている。

 

 明日は山へ行く。父が生まれ育った土地だ。先人たちの息遣いも、少しずつなら聞こえるようになってきた。その声は激しい雨にかき消されそうになるかもしれない。それでも僕は感知して、忘れずにいよう。歴史に思いを馳せることは、未来のビジョンを視ることでもある。何かをつかみ取るために、センサーを張り巡らせよう。

旬独丸

 それは始まりの終わりか、それとも終わりの始まりか。

 春の訪れは近づいている。僕がそれを認識するのはまず日の長さ。この時期になると17時でも夕焼けが残っている。桃色に近い空を見上げて故郷への思いを募らすときのしあわせ。それから気温。風が吹くとまだまだ寒いが、やわらかい日の光と穏やかな気配が組み合わさり、これ以上ない居心地の良さでついついウトウトしてしまう。大いなるものに包まれている感覚があって、心の底から安らいでいる。


 春の到来はいつだろうか。
 気象予報では「春一番が吹いたら」などと言っているけれど、それに自分では気づけやしない。同様に、木枯らし一号もわからない。すべては後になって知るのだ。

 

 劣等遊民として酒を嗜んでいた。ポテトチップスもチーズ鱈もビールの風味にマッチしている。飲んでどうするのかというと、酩酊する自分を赦して束の間の幸福に浸る。

 ベッドに置いた『カイエ・ソバージュ』を読み始めると、神話の世界が僕に扉を開き始めた。これが幸運な勘違いなのか。
 こういう本と出会った時に、あえて時間をかけて読もうとする。『指輪物語』を読み始めた時と似ている。中学生を目前にして手にしたそれは愛蔵版で、最初何の本かもわからず序章を読んだ。中身は謎めいているけれど、ただならぬ深みを感じた。時代をいくつも超えてきた古さのなかに、洗練と土着の匂いが同居していた。

 一言一句を舐めるように読む。そしてイメージを膨らませていく。それが至福の読書体験だ。一度出来上がったイメージはそれが豊かであればあるほど、自ら発展を遂げてゆく。そのとき僕は微笑を浮かべてイメージを堪能する。静かなれど重厚で世界。甘美でなくとも味のある世界。そういうものを捉えていきたい。