劣等遊民

千の旬に会うために。

正確な言葉を欲する猿から

 このブログは下書きもなく綴っている。半ば、推敲のない詩文だ。

 

 自分の頭の中にあるものを言語化するのは難しい。ただ思考の塊を表に出して誰かが分析してくれるならば、とても気が楽なことだろう。だが今のところ、そんなに便利なものは知らない。よって、アイデアや感覚を何らかの言語的記号に変換する能力が必要となる。しかしその能力が果たして備わっているのか、備わっているとすれば無意識にでも使えているのか、そうでなければどうやって開発できるか、わからない。ほとんど何もわからないから、伝えるたびにストレスが増す。わからない自分に嫌気が差す。

 松岡正剛は著書の一節で、「世の中でうまくいかないことの多くは、実は当人の言葉の使い方によっている」と表現している。昨日僕はこれを読んで、「そうやんなあ」と息をついた。

 そのようなことを言うのは彼だけではない。編集者・見城徹も著書や755において、正確な言葉で思考することの大切さを説いている。自己検証・自己嫌悪・自己否定だけが人間に深みを与える。そのために必要なものは正確な言葉なのである。

 内田樹ならどうだろうか。彼はレヴィナスの著作との出会いのエピソードを通じていくつかのことを伝えている。テクストへの敬意もさることながら、複雑なものを複雑なままに受容しようとする態度、知見を市井の読者へと架橋するために情理を尽くしておこなう説明自体に、彼の言葉と情報への接し方がにじみ出ている。文章に人柄は出る。

 山田ズーニーのコラムからも、断片的ではあるが、正確な言葉と関連して考えたいことを思い出した。「自分のメディア力を高める」ことだ。簡単に言うと他者から信用/信頼される関係性を作ることだが、要素としては報連相をしっかりする、他者に対するフィードバックを怠らない、伝えるための「型」を鍛えることなどが大切だ。言葉を使って自己・他者問わず理解の傘を広げ、通じ合える部分、根本思想を見出すことが彼女の目指す表現教育である。その過程で書く力を訓練し、伸ばす必要性にも思い至る。

 

 僕はつらつらと、影響を受けた表現者の書いた物から何かを拝借してきたが、その「何か」とは今だ自分に受肉していないエッセンス、学び思考する態度に関する大づかみな理解の束である。これを自分で加工してみて試行錯誤を繰り返したのち、〈猿〉を脱して人間たろうとする日が始まる。森山直太朗はある歌の中で「もはや僕は人間じゃない」と呟くけれど、いまだ僕は人間とはいえないのだ。

 

 正確な言葉を欲する猿であるところの僕から、苦悩する人間・君へ。

 けれども僕らはひとりではない。ひとりではいられやしない。