劣等遊民

千の旬に会うために。

伊勢の光

 どこに行きたいかと訊かれたら、なんとなく「伊勢」と答えるだろう。
 伊勢には晴れがましさがある。
 近鉄難波駅から特急券を買い、車窓の外をぼんやりと見つめ心落ち着かす。奥大和から伊賀の辺りは山と森である。伊勢中川から南へ下ると田畑が広がり、次いで住宅地が見えてくる。少しずつ人の気配が募ったところで松阪の町が姿を現し、宇治山田の駅で降りると間もなく神宮が見えてくる。都会から秘境に入り、徐々に人里へ戻る過程は生まれ変わりの体験をしているようだ。
 とはいえ、これまで伊勢にいった3度のうち1度は特急列車に乗ったが、あとは自動車と自転車である。小学生の頃に家族と、高校の卒業旅行で部活の仲間と、大学時代に単独で来た。いずれも行程は異なる。答志島の民宿、志摩スペイン村、一人焼肉とどれも懐かしい。
 宇治橋のそばは駐車場になっていて、観光バスやタクシーが多く停まっている。とりあえず記念撮影のためセルカ棒を高く掲げる若者がいる。大型バイクに乗った男性がスペースを見つけられずに右往左往したかと思えば、顔なじみのライダーを見つけヘルメット越しに微笑んでいる。輝くのは神宮ではなく、その〈気〉を浴びた民のほうだとたしかに思う。
 内宮を歩く目的は参詣であり森林浴だ。澄んで微かに湿った空気、砂利の鳴る音、緑の木立から覗く拝殿。このような場所にとどまると信仰心は自然への驚嘆とともに立ち上がってくる。五十鈴川の流れを眺めて過ごす時間も悪くない。

 観光客向けの食事処で、伊勢うどん松阪牛の牛丼を食べる。どちらも口に甘みを残す。前者は醤油で、後者は牛脂だ。くどくなったら紅しょうがで変化をつけて交互に食べる。顎を動かし考えるのは、早くも食べ歩きのことである。
 おはらい町に繰り出して一味唐辛子の煎餅や干物の数々を堪能し、すれ違う人の会話をなんとはなしに聞いてみる。家族連れよりはカップルや友達同士で歩くのが多い。その先におかげ横丁がある。昔遊びに興じても良いし、3時のおやつに赤福を嗜むのも良い。餡の上品な味わいとお茶の渋みの相性が良く、予定していた個数をオーバーして食べてしまう。伊勢の食べものはみなどこか甘い。厳粛な神宮からの開放感がそうさせるのか。答えを出す必要もなく、むしゃむしゃしている。

 伊勢の街中を歩くかわりに、鳥羽へ行く人もいるだろう。水族館には小学生と高校生とで2度行った。関東ギャルが気持ち悪がるウツボを母が可愛いと言い、イルカかアシカのショーを見逃し男子高校生が揃ってクラゲを観察していた場所だ。
 真珠の価値はよくわからないし、それよりは海の幸を食べたい。ホテル近くの美味いと評判の店で、海鮮丼と一品料理を貪った。ホテルマンはダンディかつ親切な人で、標準語だが話のユーモアもあった。お気楽な大阪からのティーンエイジャーに隠れスポットや旅の醍醐味を教えてくれた。思いがけない良き出会いが、旅を輝かせてくれるものだ。
 家族で泊まった民宿で、海藻を食べるようになった。夕食以上に朝食が豪華なことに心躍った。早朝に起きて野山を歩きまわっていると、「川口浩探検隊」になった気分でウキウキした。小ぶりな漁船がひしめく港で潮風を吸い込んでいると、都会で蓄積してきた疲れは全部吹き飛んでしまうように感じられた。船酔いもしたがリフレッシュすることができた。
 自転車に乗り自分の脚で伊勢と鳥羽の地を巡っていると、海と山が接近していることに気づく。紀伊半島の南の沿岸ほどではないが、街のエリアは案外狭く、川を通じて山から海へと水が広がることがよくわかる。その一滴を構成する微粒子にでもなったかのように、僕は道路を走り抜けた。二見浦で燃えるような夕陽を見ながら、伊勢路を駆ける。それはたいそう心地よかった。

 神の膝下で生きる民は、そうでない人々よりも安らいでいるのだろうか。日々の生活に悩みながらも大きな存在にいだかれて、霊的には満たされながら過ごすのだろうか。
 僕は信心深くはないが、神宮の森は深く川は清らかだ。賑わう町を歩いていると、人の活気に影響されて自分も元気になってくる。観光は「光を観る」と書くが、この地に充満している光は我が眼を撃つ。