劣等遊民

千の旬に会うために。

旬独丸

 それは始まりの終わりか、それとも終わりの始まりか。

 春の訪れは近づいている。僕がそれを認識するのはまず日の長さ。この時期になると17時でも夕焼けが残っている。桃色に近い空を見上げて故郷への思いを募らすときのしあわせ。それから気温。風が吹くとまだまだ寒いが、やわらかい日の光と穏やかな気配が組み合わさり、これ以上ない居心地の良さでついついウトウトしてしまう。大いなるものに包まれている感覚があって、心の底から安らいでいる。


 春の到来はいつだろうか。
 気象予報では「春一番が吹いたら」などと言っているけれど、それに自分では気づけやしない。同様に、木枯らし一号もわからない。すべては後になって知るのだ。

 

 劣等遊民として酒を嗜んでいた。ポテトチップスもチーズ鱈もビールの風味にマッチしている。飲んでどうするのかというと、酩酊する自分を赦して束の間の幸福に浸る。

 ベッドに置いた『カイエ・ソバージュ』を読み始めると、神話の世界が僕に扉を開き始めた。これが幸運な勘違いなのか。
 こういう本と出会った時に、あえて時間をかけて読もうとする。『指輪物語』を読み始めた時と似ている。中学生を目前にして手にしたそれは愛蔵版で、最初何の本かもわからず序章を読んだ。中身は謎めいているけれど、ただならぬ深みを感じた。時代をいくつも超えてきた古さのなかに、洗練と土着の匂いが同居していた。

 一言一句を舐めるように読む。そしてイメージを膨らませていく。それが至福の読書体験だ。一度出来上がったイメージはそれが豊かであればあるほど、自ら発展を遂げてゆく。そのとき僕は微笑を浮かべてイメージを堪能する。静かなれど重厚で世界。甘美でなくとも味のある世界。そういうものを捉えていきたい。