劣等遊民

千の旬に会うために。

浪民は氾濫する

 あてにならない自分という存在について考えている。何一つ満足にこなせやしない。誰の期待にも応えられない。いつも遮二無二突っ走っては、的外れな答えに行き着く。それでも生きながらえているのは、ひとえに周囲に恵まれてきたからだ。

 思えば幼少期から多くの人に護られていた。厳しくも熱い愛と責任感でもって育てようとした先生、変わることなく声をかけてくれるご近所さん、ありのままに僕を受け入れる友人たち。僕は人に導かれてきた。

 環境も僕の味方だった。家では少し背伸びをすれば読める本の群れ、外に出れば穏やかな風が吹く町で過ごしてきた。「温室育ち」と言う人があれば胸を張って頷くことができるぐらいに、健やかな場所に身を置いてきた。悲しいことや腹立たしいこともあったが、精神衛生もおおむね良好だったと記憶している。

 

 僕は運動が不得手だった。たとえばこんなエピソードがある。幼稚園の頃、先生の「何周でもいいから走ろう」という一言と共に園庭に解き放たれた子どもたちのうち、僕だけが1周で帰っていったら叱られた。今にして思えば打てど響かぬ子どもではあるが、当時は理不尽さを感じていた。コマ無し自転車に乗ったのも同級生で最後だったし、縄跳びも球技もプールも苦手だった。ボタンを留めたり靴紐を結んだりすることもできなかったから、運動性知能が低かったのだと思っている。

 それでも僕は言語性知能で居場所を与えられた。読みだけならば小学校低学年の漢字はほとんど理解できたし、住んでいる市の地名を諳んじることも簡単だった。家では絵本を読み聞かせでなく自分で黙読していたから、幼稚園の先生に代わり「おはなし会」をひらいたりもした。行動がどんくさいのを座学でカバーできていたから、つらいこともあったけれどなんとかやっていくことができた。僕を孫のように可愛がってくれた園長先生にも感謝している。

 

 小学校は僕にとって快適な環境だった。国語の授業で毎回のように音読の番が回ってくる。不慣れであろう、たどたどしく声の小さい同級生を尻目に僕は、すらすらと読むことができた。黒板に字を書く時も、見よう見まねで練習してきたかいがあってか先生に褒めてもらった。そのかわり書き順はメチャクチャだった。特に漢字は記号のように捉えていたので、形さえ整っていれば書く順番など気にならなかった。

 テストへの出会いもポジティブなものだった。算数の引き算だけは最初まごついた記憶があるが、漢字書き取りをはじめ100点の山を築いた。答案用紙が返ってくるたび、僕にとっては当たり前にできていることが称賛に値するということに自尊心が満たされていった。ここで好循環が始まり、もっと100点を取りたいと思い教科書を丹念に読んだ。あるいは僕の活字中毒は当時からすでに始まっていたのかもしれない。

 

 中学校に上がると事はそう簡単ではなくなってきた。部活動などが忙しくなり、本を読むための時間は寝る前にしかなかった。あのころは良くベッドの中で電灯を点けて親に叱られた。そうまでして読んでいたのは小説だった。入学前の春休み、母から与えられた本は(図書館から借りてきたものだが)『指輪物語』の愛蔵版だった。僕は最初、ほとんど何も知らないままにページをめくった。序章で強く惹きつけられた。この本は一味違う、これまでにない深遠さがある。茶色い表紙で(内容も)分厚い本の正体が、数年前に流行した映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作であると気づいたのは、しばらく読み進めた後のことだ。

 『指輪物語』の語り口や背景の緻密さにすっかり魅了された僕は、中学生時代を通して物語に親しんだ。ヤングアダルト向けのファンタジー小説が大好物で、『ドラゴンランス』、『ロードス島戦記』あたりに手を伸ばしていた。深夜に母に叱られた時に『ブレイブ・ストーリー』を食い入るように読んでいたのも懐かしい。しかし、原点にして最高峰は『指輪物語』で決まりだ。

 このころから、学力とは離れたところで読書に精を出すようになった。インクの匂いを浴びながら活字を目で追い、描かれている情景を頭の中に展開させようと努めていた。なかなかうまくいかないときは、一連の文の塊を何度も確かめ叩き込んだ。副産物と言っていいのか、僕が書く文章はリアルタイムで読んでいるものの文体から影響を受けるようになった。物語の世界から現実にうまく戻ってこれない気分もあった。

 

 高校生のころには表に出る性質がかなり変わった。それまでよりも攻撃的になったというか、短い言葉を刻むような話し方をしていたと思う。まどろっこしさを避けようとして、言葉足らずで人を傷つけた。自分というものが不安定で、たえず他者から干渉されると感じるようになった時期である。当時高校生の間では「前略プロフ」や「デコログ」なんかが流行っていたが、僕は部活のホームページ(当然生徒間だけで通用するもの)でも挑戦的な文章を書いたり呪詛の言葉を綴ったりした。たぶん今ならTwitterで炎上不可避の内容だろう。振り向けばそこに黒歴史がある。工夫していたところもあるから懐かしい気持ちもあるが、幸か不幸か検索に引っかからない。

 

 大学生活の初期は、人と関係する難しさやアルバイトでの仕事のできなさに苦しんだ。それだけに、後になってから救われた気分になった。というのは、二十歳を過ぎたころから徐々にいろいろな人と話をできるようになったからだ。苦手意識を感じる人といるときも、まずはその場を明るく過ごすことが大切だと知ることができた。これは後々「機嫌良く生きる」ことにも繋がっていくのだけれど。

 僕がそういうことに気づけるようになるまで、たくさんの人が粘り強くかかわってくれた。面倒だと感じることもあっただろうし、嫌われてしまった人もいるかもしれない。それでも地道なかかわりのなかで、鈍い僕でもようやく人と繋がらなければならぬと自覚するに至ったのである。

 卒業式が近づいたある日、考えていたことがある。「大学生・3つの『じ』」。今でも定まっていないけれど、大学生が後の人生で羽ばたくために心に留めておくべき要素を挙げた。当時の僕は「時間・人脈・自覚」の3つでまとめたはずだ。時間がたっぷりあるうちに見聞を広めること、刺激し合い高め合える関係の人と多く出会うこと、人生の目指すところを自覚すること。そんな意味合いで選んだのである。しかし他にも大事な「じ」はある。自発性や人格陶冶、情報収集などがそうだし、僕は身に着けられなかったが常識を理解することも重要だ。これだけ思い浮かぶのだから、3つに絞るのは至難である。

 とはいえ実際、学生時代にありあまる時間を享受した僕は自転車で知らない町を放浪し、たくさんの発見をした。詳しいことは別の機会に書くつもりでいる。人脈は積極的に広げられなかったけれども、無駄にしたくないものばかりである。人生の目指すところも、おぼろげながら見えてきたのがこの時期だった。

 

 奇しくも今日は母校の卒業式である。2年前に旅立った僕も、なんとか生きながらえている。感謝の姿勢をゆめゆめ忘れず、微々たる前進でしかなくても歩みを止めずにいこうと思う。