劣等遊民

千の旬に会うために。

〈晴漕雨描〉宣言

 僕がこれから言おうとするのは、自分なりのインプットとアウトプットの位置づけである。

 

 3月21日から22日にかけて、複数の書籍と雑誌が届いた。いくつかは半年前から欲しかったもので、残りはAmazonで興味を持って衝動買いした。今回だけでなく、僕はこのように複数の本を買う時に時間差を生じさせている。

 こんなことは僕だけでなく大抵の人に当てはまるのかもしれない。誰だって本を買う時に吟味することもあるし、別の時には手に取ってすかさずレジに並びもするだろう――最近の僕はクレジットカード決済による「ジャケ買い」がほとんどやけど。

 ただ僕の場合、絶対に買おうと決めているのにすぐ手を出さないことも多い。棚の変化が激しい書店ではなくAmazonだからできるのだろうが、目星をつけた本をしばらくカートの中に放置しておき、機が熟したと見るや決済する。ここに僕の独特な美意識の一端がある気がして、もう少し言葉を引き摺り出してみたいと思った。

 

 人生、というと大袈裟だろうが、運を引き寄せるためには「センス・バランス・タイミング」の感覚を養うことが重要だと考えている。これは手帳にも書いているが、センスとは美意識あるいは才能であり、その人が生きていく方向性や指針を示すものである。何を良しとし、どこで自分を出力するか、アイデンティティにかかわるものだ。バランス感覚は人生を持続するために必要だろう。どれだけ類稀な才能を持っていようと、判断を間違えれば発揮することができないばかりか、すべて台無しになってしまう危険もある。判断基準、生活の軸を定めることで初めて理想への道が見えるようになる。そして最後にタイミング。これが特に奥深いものだろう。

 同じことでも、起こるタイミングが違うだけで出力結果に天地の差が生まれる。いや厳密にいえば、タイミングが違えばそれはもう「別のこと」なのかもしれない。だから表現を変えてみる。「同じ才能や生活様式を有しても、ある一つの出来事が異なるだけで、人生全体が一変する」。

 ここでいう「タイミング」の用法が少し特殊であることが分かってきた。センスとバランスが自分の内面に深く根差しているのに対し、タイミングだけば外部から去来するものに関係しているのである。

 

 タイミングはコントロールできないもの。そんな前提が僕にもまずある。神様の悪戯みたいなことがこの世では多発していて、偶発的な出来事を礎に僕は自己形成してきた自覚がある。でももしかすると、それはある法則の下に起こっているのかもしれない。

 こう言うと自己啓発くさい。しかしとにかく僕はそのつもりで生きてみようと企てたのだ。まだ何も見えていないが、タイミングとは自分であって自分でないもの、未だ見ぬ僕を形作るための不可欠なピースであると仮定している。

 自分の進むべき道を見出し、そこへ向けて着実な歩みを進めるだけでなく、不確定要素を糧とし取り込むことができるか。それが人生の大きな分岐点だと思う。後から「あれは自分の人生にとって大きな分岐点だったな」と振り返ることはある。しかし目の前に選択肢が現れた時、「ここが重要なポイントだ」と自覚できるか、人生の主人公である感じがもてるか。タイミングを完全に飼いならすことはできないけれど、時間と主体的に向き合い、その場で最善と感じられる選択をし続けることで己が磨かれ、人生の道筋がひらけてくる。そういうものと心得ている。

 そもそも人生は選択と決断の連続であるということを捉え続けていられるか、時間を味方につけられるか。そういうことが言いたかったような気もする。

 

 最近の僕は本を買うという行為でも、タイミングを強く意識するようになった。「この本は僕にとって必要か」とか「楽しく読むことができるか」といった問いはその前段で済ませてある。カートに入れっぱなしの本を目の前に考えるのは、「その本を必要とするのは、いつごろの僕か」ということである。

 今すぐ読まなきゃ! という思いがほかの基準を凌駕したら迷わずに買う。プライム会員だからほとんど翌日には届く。そして活字の束を貪る。そうではなくて、読みたいんやけど今じゃない、ということもある。その「ずらし」が読書に深みを与えてくれる。読書というのは、「実際に本を手に取って読む」ことだけでなく、その前後にも広がりをもつし、さらに立体的なものだ。これから読むぞ! とワクワクする、感想を書き込む、関連する内容を思い浮かべる。そういったことも全部ひっくるめて「読書」だ。僕は読書の快楽を最大化するために、意識的にも無意識にも「ずらし」を入れているのだと思う。

 そしてたまに、別々だったはずの様々な事柄が脳の中で一気に繋がる感覚を得る。これが最高の興奮である。串刺しだったり輪っかだったりするけれど、「あれは、こういうことだったのか」と認識した時、凄まじい量のドーパミンが分泌されていることだろう。

 

 この現象は何も読書だけではなくて、見知らぬ場所を放浪し続けた先にも起こる。僕はこれがたまらなくて、予定調和から逸脱してゆく。「あの道はここに通じていた」思い出すだけで脳汁がとめどなく溢れ出る。僕はその感覚を追い求めているのである。

 しかしその感覚は儚いものだし、うまく言い表せていない。でも感動は共有したい。他者に伝達していくためには、この感覚を表現する言葉を掘り当てなければならない。そこにはセンスやバランスの力も必要である。これまでの人生を総動員して、これからの人生をデザインしていく営みである。

 たぶんそれは一生かかる営みだろう。しかし僕は仮に言葉を与えてみたい。その感覚への手がかりを表す言葉を。

 

 〈晴漕雨描〉

 

 まずは描き続けることから。